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長沼町の川

1.馬追運河
馬追運河(うまおいうんが)は、北海道夕張郡長沼町を流れる運河。馬追山山麓の山根排水に発し、西流して旧夕張川に注ぐ[1]。 泥炭地が広がっていた馬追原野の中央を貫き、排水による土地改良を行う目的で開削された[2]。 1893年(明治26年)3月、北海道庁長官の北垣国道は内務大臣の井上馨に「北海道開拓意見具申書」を提出し、その中で運河の開削と排水の重要性を訴えた[3]。泥炭地を農耕地に仕上げるためには、土地を乾燥させて地温を上昇させ、土壌の分解を促すことが必要だが、急激な北海道移民の増加により入植先での排水工事が追い付いていなかったからである[4]。 折悪しく開戦となった日清戦争の戦費調達が求められたため、北垣の計画はほとんど実行に移されることはなかったが、それでも馬追運河の開削は全額日本国費で賄われた[1]。工事は1894年(明治27年)に着手され、1896年(明治29年)6月に竣工した[1]。
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2.大学排水
大学排水(だいがくはいすい)は、北海道長沼町にある人工河川。千歳川に注ぐ。 合流点近くには北海道道967号馬追原野北信濃線の「大学橋」が架けられており、橋のたもとには「大学橋記念公園」がある。 昭和時代の初めころまで、長沼町と千歳市の境には長都沼(おさつぬま)があり、その周辺は低地であった[1]。そのため大雨が降ると、沼は氾濫して付近一帯の田畑を水浸しにしてしまい、農民たちを悩ませていた[1]。水害対策として考えられたのが、余剰な水を千歳川へ排出する流路である[1]。 また、北海道庁長官の戸塚九一郎は、運河を造成することで、日本海側の石狩川河口から太平洋側の勇払川河口までを巨大水路で結ぶという壮大な構想を抱いており[2]、海軍もこれに注目していた[3]。目的こそ異なるが、水路の建設という点で、戸塚の計画は農民たちの希望と一致していた。
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